自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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■これまでに発表した声明を掲載します。
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■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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「鎖国」から「4つの口」へ―近世日本の国際関係をどうとらえるか―(Vol.2)

「鎖国」から「4つの口」へ―近世日本の国際関係をどうとらえるか―

「自由社」の教科書の問題点 このコラムでは、「自由社」の教科書の中の近世の国際関係の記述(89~128頁)の問題点を詳しく論評する余裕はありませんが、とりあえず、次の3点を挙げておきます。
1つは、日本を美化することに主眼がおかれている、いわば「自惚(うぬぼ)れ史観」であること。
2つは、その価値の基準が欧米にあり、それ以外の地域、特に東アジアへの関心はほとんど見られないこと。
3つは、近世の国際関係については、「4つの口」の関係を「鎖国下の4つの窓口」として紹介してはいるが、そういう関係が存在したことの歴史的な意味についてまともな説明はされていないこと。    
つまり、旧弊な「鎖国」観を、著者たちの「自惚れ史観」にのっとって焼きなおした「鎖国」肯定論にすぎないことです。さらに、文体は散漫で、初歩的な誤りや誤解も多く、新しい研究成果を取り入れて子どもたちに真に栄養になる教科書を作ろうという意欲も配慮も見られません。
  「鎖国・開国」という見方について 「鎖国」という言葉が文科省の今年度の指導要領(高校用日本史B)から消えました。「開国」という言葉はまだ残されていますが、いずれそれも消えることになるでしょう。2つの言葉はともに実態を表現するには不十分であるとともに、「開国」は「鎖国」と対(ペア)になっており、「鎖国」があるから「開国」があり、その逆もまた真であるという関係であるからです。
「鎖国」という言葉が生まれたのは1801年ですが、それが支配層や知識人の間で一般化するのはペリー来航(1853年)以後です。「開国」という言葉そのものは古くからありますが、もともとの意味は「国をつくる」(建国)という意味でした。ペリー来航以後の状態は主に「開港」と呼ばれており、それを「開国」と呼ぶことが一般に定着するのは19世紀末のことです。この対の見方が定着するまでには約半世紀という時間と日清戦争の勝利(1895年)や条約改正の実現(1897年)などの成果が必要だった、言い換えれば、それまでは明治維新や近代化の推進者たち自身も、自ら選んだ方向について不安を抱えていたと言うこともできます。つまり、「鎖国・開国」という対の言葉は近代日本人の近世へのまなざし(観方)であると同時に、彼らのアイデンティティのよりどころの1つでもあったのです。「鎖国・開国」という言葉の歴史的役割については、今後も研究を深めていく必要がありますが、近世の国際関係の実態については、そのような言葉にとらわれずにさらに研究を深めていく必要があります。

「四つの口」の国際関係 「自由社」もそうですが、他の教科書でも「4つの窓口」と言い換えられている例が多いようです。しかし、1978年に提起されたのは「四つの口」で、当時の史料にも、まとめて「四口(しくち)」、個別には「長崎口」・「対馬口」などという表現で出てきます。これらの国際関係にはおよそ3つの局面があります。
1つは、国内において、誰がどのような形でその関係に携わるか、ということです。近世においては、これらの権限は幕府(究極的には徳川将軍)が独占し、外交や貿易などの具体的な業務は1つの特権都市(長崎)と3つの大名(島津氏・薩摩藩、宗氏・対馬藩、松前氏・松前藩)が「役(やく)」として排他的に担い、そのための財政的な基盤として、貿易の利益など、その関係から得られる利益を「所(しょ)務(む)」(職務にともなう得分(とくぶん))として独占することを許されていました。いわゆる封建的な「御恩・奉公」の関係が将軍と「四つの口」の担い手(3都市と3大名)との間には成立しており、それにもとづいてこれらの関係は営まれ、統制されていました。  
2つ目は、これらの関係から排除された国々や人々があったということです。排除された国々はスペイン・ポルトガル・イギリスなど、カトリックを信奉する国々です。その他にも排除された人々がいました。他ならぬ、一般の人々です。ヨーロッパにおいても、上記以外の特権を持たない国々や特権を持った国々であっても、ヨーロッパ以外の地域に関しては、一般の人々は排除されていました。
東アジア諸国における「国家」権力(政府と特権者)による国際関係の独占の形態にも、違いがあります。それぞれについて立ち入る余裕はないので、日本の1つのケースだけについて説明しておきます。一般に「日本人の海外渡航の禁止」と説明されてきましたが、実際には、朝鮮の釜山、当時は「海外」(外国)だった蝦夷地(現北海道の大部分)や琉球にも特権を持つ日本人は渡海していました。日本人の渡航が全面的に禁じられていたのは、スペインやポルトガルが制海権を握り、キリスト教に「汚染」されていると幕府が考えたシナ海域だけでした。事実、「日本人の海外渡航の禁止」の根拠とされてきた、いわゆる「鎖国令」(1635年)のその条文は、具体的には朱印船(奉書船)の禁止を目的としたものだったということが明らかにされているのです。

近世東アジアの国際社会の平和と繁栄 3つ目は、各国の政府が国際関係の権限を独占しながら、主体性を持って相手を選び、そのネットワークで、アジア地域全体の平和と安定を実現したこと、さらに大事なことは、そのことについての明確な、あるいは、暗黙の了解が各国の政権担当者の間で共有されていた、ということです。そして、その様な関係のもとで、日本だけでなく、各国は緩やかに発展を続け、固有の社会と文化を育み、それが現代の各国民のアイデンティティ(国民意識)と文化の土台となったということです。そこに、この時代の国際関係の歴史的な意義を認めることができるでしょう。

近世の国際関係のあり方を「鎖国・開国」観にもとづいて批判的にみることは、一概に否定すべきではないでしょう。しかし、近世の国際関係のあり方を切り捨ててきた近・現代の日本人、そしてその日本人(そこには、「新しい教科書をつくる会」の皆さんも含まれています)が信奉してきた欧米の国際社会の論理は、地球や人類に何をもたらし、これから何をもたらそうとしているのでしょうか。現在は、そのことを真摯に反省すべき時期にきています。その際に、日本をふくめた近世東アジアの国際社会の実態は、私たちが見失ってきたものを映し出す鏡ともなるのではないでしょうか。