自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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秀吉の朝鮮侵略(Vol.2)

秀吉の朝鮮侵略

 「31豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」96~97頁

ここで学びたいこと

1 朝鮮侵略の背景  中国の明帝国が栄えていた15世紀には、東アジアの周辺国が明に朝貢することによって国際的な秩序が保たれていました。しかし、16世紀になると、中国沿岸部の商人による交易の拡大(後期倭寇)や、中国商人とともに新たに東アジアの通交関係に割り込んできたポルトガルなどのヨーロッパ勢力の動きがさかんになり、国際秩序は崩壊の兆しを見せていました。朝鮮侵略の背景には、このような東アジア情勢の変化がありました。

2 朝鮮侵略の原因 秀吉は、全国統一する前から、このような明中心の朝貢体制が崩れてゆく機会をとらえて中国さらにインドまでも征服し、自ら一大帝国をつくりあげるという構想(妄想)をもっていました。戦いにより領地を広げていく戦略を、国内だけでなく、海外でも実行しようとしたのです。そのため、国内統一後、ただちに朝鮮にたいして明への道案内を求めました。ところが、それが拒否されたので、肥前名護屋(佐賀県)に巨大な城を構え、15万人もの大軍を朝鮮半島に送り始めました。このように、朝鮮侵略は、秀吉のアジア征服の野望が直接の原因となってはじめられました。

3 戦争のようすと抵抗 15~16世紀、日本は戦国時代をむかえていましたが、朝鮮では長く平和が続いていました。また朝鮮は日本についての正確な情報もつかんでいませんでした。そのような時に、戦争によって鍛えられた秀吉軍が鉄砲を駆使して攻撃してきたため、朝鮮国内は混乱し、ひと月ほどで、朝鮮北部の中心平壌(ピョンヤン)まで占領されてしまいました。戦争の知らせを聞いた国王が都から脱出したこともあって、軍は十分な抵抗ができず、反撃はまず義兵や民衆によって行われました。女性も投石などで抵抗したことが記録にあり、最近も、頭部に刀傷を負って死亡した女性の頭骸骨が発掘されています。やがて、朝鮮軍が態勢を整え、李(イ)舜(スン)臣(シン)の率いる水軍が制海権を奪うなど反撃に転じ、義兵の抵抗もさらに激しくなりました。また、明も、朝鮮北部まで侵略した秀吉軍の明への進入を防ぎ、自国の利益を守るため、大軍を送ってきました。その結果、秀吉軍は劣勢に追い込まれていきました。いったん明との講和が図られましたが、不利な戦況を認めようとしない秀吉は、明の示した講和内容に激怒し、朝鮮南部に14万人の兵を送り、再び戦いが起こりました。1598年の秀吉の死によって、悲惨な戦争はようやく終わったのです。

4 戦争の結果 戦争によって、朝鮮の兵士、一般民衆はもちろんのこと、日本の兵士や駆り出された農民や漁民(その数は兵士より多いといわれる)、明軍にも大きな犠牲が出ました。また、朝鮮の文化財、自然も大きな被害を受けました。世界遺産であるソウルの景福宮(王宮)など、文化財の多くはこの時期に破壊され、のちに再建されたものです。朝鮮では、戦争によって社会が混乱し立ち直るのに多くの時間がかかりました。その後の植民地化とあわせて、日本人への怨恨が今に伝わっています。さらに、戦争は豊臣政権崩壊を早める一因にもなりました。明も、戦争後ほどなく滅び、中国中心の秩序が解体して、日本、朝鮮、琉球は、それぞれ独自に外交を進めていくことになります。このように朝鮮侵略は東アジア全体に影響を与えた大戦争でした。

ここが問題

1 ただ軍隊を派遣するだけではなく、領土を奪うことを目的として相手を攻撃することは、侵略といいます。教科書の表題には「豊臣秀吉の政治と朝鮮出兵」とありますが、他の教科書や多くの書籍は侵略と表現しており、ここでは侵略と書くべきです。

2 97頁13行目に「明との和平交渉のために兵を引いた」とありますが、実際は講和中に8万人もの軍を残して次の戦いに備えていました。また、戦争の原因・経過・結果については、秀吉の野望に加え、東アジアの国際環境からも考える必要があります。「明の皇女を天皇の后にせよ」などという一方的な講和条件が決裂を招いたのは当然でしょう。

3 加害については具体的に説明しないと戦いの本質がわかりません。秀吉は、武将たちに朝鮮人の皆殺しを命じました。そして戦功のあかしとして、首の代わりに耳や鼻を送れと指示しました。耳塚(鼻塚)は、耳、鼻を切り取られた人々を「供養」する塚です。現存する鼻請取状には、吉川家の18350個など、28881個もの朝鮮の人々の鼻が切り取られ、塩漬けにされて日本にもたらされたことが書いてあります。

4 「歴史のこの人陶祖李参平」では、「李参平はそのまま帰化し」(97頁)と書かれています。しかし、自ら進んで日本にとどまったのではなく、さまざまな事情から帰れなかったのが真相でしょう。今でも陶工の子孫は先祖の姓を名乗り(有田焼の李氏、薩摩焼の沈氏など)、帰国できなかった先祖をしのんでいるといいます。朝鮮から連れてこられた5万人(20万人という説もある) におよぶ人のうち、その後帰国できたのは、わずか2千人ほどでした。日本やポルトガルの人買いに奴隷のように売られた人も多かったのです。また、李参平が伝えたのは陶器ではなく磁器の焼成技術の間違いです。

アドバイス

旧500ウォン紙幣には、朝鮮の水軍司令官李舜臣の肖像と亀甲船が描かれていました。亀甲船とは相手が乗り移れないように船の甲板を針のように鋭い突起で覆い、側面に銃眼をつけた軍船です。また朝鮮各地には李舜臣像が建っています。なぜ李舜臣がお札の図になったり像が建てられたりするのかを考えさせてみるのもよいでしょう。