自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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鎖国下日本の4つの窓口(Vol.2)

鎖国下日本の4つの窓口
「35鎖国下日本の4つの窓口」106~107頁

ここで学びたいこと  

 「鎖国」とは、どのような実態だったのでしょうか。幕府は、日本人の海外渡航を禁止(海禁)するとともに、長崎・対馬・薩摩・松前の4つの窓口に限定して交易・外交をしていました。これは、幕府が新しく作り上げた独自の外交政策であり、完全に「国を鎖した」のではありません。限定されていたとはいえ、人・物・情報の流入は続けられました。幕府の領地であった長崎は、幕府の奉行所が管轄しましたが、対馬、薩摩、松前の3つの窓口の管理については、それぞれの大名に任せました。幕府はこの4つの窓口から海外の情報を入手し、独占的に管理しました。また、オランダ・朝鮮・琉球王国の使節を江戸に参府させ、幕府(将軍)の威信を国内の人びとにみせつけました。日本の幕府とこれらの国との関係が続いたのは、互いに利益と思惑で結びついていたからです。そのようすを学びましょう。
【注】このテーマは、教科書にある「4つの窓口」としましたが、歴史学では、「4つの口」と表現するのが通説です。以下は~口の用語を使います)

1 長崎口

A 出島でのオランダとの貿易
 17世紀のオランダは、中国産の生糸・絹織物をはじめ、アジア各地で買い付けた綿織物・薬品・砂糖・皮革・香料などを出島に持ち込み、銀・銅などを得て莫大な利益を得ていました。そのため、どうしても幕府からの貿易許可を必要としました。オランダ人は出島での厳しい隔離生活にも耐えました。商館長が江戸に参府し将軍との謁見に臨むときの儀礼は、屈辱的でさえありましたが、我慢したのもそのためです。
 18世紀以降には、日本からの輸出品は銀ではなく銅とされ、貿易額も制限されますが、幕末までオランダとの貿易は続きます。毎年、幕府に提出される「風説書」は、世界情勢を知るための重要な情報源でした。なお、商館長の江戸参府の際は、定宿の長崎屋(ながさきや)に滞在していましたが、その折には学者や知識人が訪問することが許され、蘭学の発達にも影響を与えました。

B 唐人屋敷での中国との貿易 
 一方、幕府は、中国産の生糸や絹織物など、莫大な利益のあがる輸入品を確保するため、中国人の来航による貿易を認めました。清では、日本の銀に対する需要が大きく、17世紀後半には、貿易船が激増し、日本から国外への金銀流出が、貿易上の大問題になりました。そのため、幕府は、1685年、年間の貿易額を中国船銀6000貫目、オランダ船金5万両(銀3000貫目)に制限し、その後も制限を加えました。さらに密貿易を禁止し統制するために、1688年からは、長崎郊外に設置した唐人屋敷(約1万坪の敷地)に限って貿易を許しました。18世紀以降、輸出品は、銅・海産物(煎(い)海鼠(りこ)・干し鮑(あわび)・鱶(ふか)のひれ・昆布)などで、取引量はオランダをはるかに越えていました。

2 対馬口 朝鮮との正式な国交 

 幕府を開いた家康は、対馬藩に朝鮮との国交回復交渉を要請しました。対馬藩にとっては、朝鮮出兵によって中断されていた貿易の復活は急務でしたから、捕虜を朝鮮に送り返すなどで誠意を示し、講和を実現させました。1609年、藩主宗氏は朝鮮と己(き)酉(ゆう)約(やく)条(じょう)を結び、貿易の内容や通信使の来日などが決められました。
 朝鮮側は、釜山(プサン)に倭館(約10万坪)の設置を行い、そこには、対馬藩から役人と商人たち500~600人が常駐していたのです。年に20 回の貿易が行われ、中国産の生糸・朝鮮人参・木綿・書籍などが輸入され、銀や銅が輸出されました。また、将軍の代替わりの時に派遣される通信使を受け入れるための準備なども、この倭館で行われました。この外交使節の派遣は、前後12回実施されました。4回目からは、「信(よしみ)」を「通(かよわす)」通信使と称され、400~500人ほどの大使節団で来日し、各地で歓迎されました。宿泊の際には、丁寧なもてなしを受け、随行の学者や文化人との交流が行われました。朝鮮通信使がもたらした、中国からの情報は貴重でした。

3 薩摩口 琉球王国

 
 1609年に薩摩藩の島津氏は琉球王国を武力で服属させました。琉球王国は以前から中国と服属関係にありました。そのため、冊封使(さくほうし)が来琉し、琉球からは毎年進貢船が派遣されていましたので、海外の情報や中国の産物などをゆたかに入手していました。そこで、薩摩藩は、琉球王国の朝貢貿易を続けさせました。那覇港(107頁の絵)には、中国・琉球・薩摩の船の賑わいがみえます。よく観察してみましょう。     
 幕府は、将軍の代替わりには慶賀使を、国王の即位の際には謝恩使を江戸まで派遣させました。その際、行列に中国風の服装を強要するなどして、沿道の人々に、幕府の「異国支配」を見せて権威を高めようとしました。(帝国の109頁の行列の絵が参考になります。) 

4 松前口 アイヌとの交易

 まだ、どこの国にも属していない領域であった蝦夷地では、アイヌが、狩猟・農耕(アワ、ヒエ、ソバ、ダイズ等)や交易で生活をしていました。中国―韃靼(だったん)―樺太―松前というルートで日本に持ち込まれた蝦夷地や大陸の産品は、松前から各地へ運ばれます。昆布・〆(しめ)粕(かす)・俵物(たわらもの)・蝦夷(えぞ)錦(にしき)などを素材に、蝦夷地―日本海沿岸都市―大阪-長崎や薩摩・琉球を経て中国までつながる、モノの流れを追ってみましょう。
 一方、幕府から松前口の支配を命じられた松前藩は、米が取れないためアイヌとの交易を収入源としました。かつてアイヌたちは、津軽・下北・秋田で、自由に交易していましたので、以前とは異なる不利な条件での交易に不満を持つようになりました。ついに、1669年にはシャクシャインの指導する大規模な戦いが起きました。松前藩は、津軽藩の援軍を得て鎮圧に成功し、これ以降は、アイヌとの交易を独占し続けるようになりました。

ここが問題

1 106頁6行目「長崎には中国船も来航して交易を行った」との記述は、不十分です。自由に交易が出来たのではありません。かつては、長崎各地に住んでいた清国商人は1688年以来、唐人屋敷への居住と取引を義務づけられ、生活は隔離状態に置かれていました。交易は、この屋敷内で幕府役人立会いの中で行われたのです。 

2 106頁11行目「朝鮮の釜山には宗氏の倭館が設置され」では、宗氏が設置したかのような誤解を招く恐れがあります。設置したのは朝鮮側で、日本人の無断外出や内陸旅行は禁止でした。その理由は、再び日本による侵略を恐れていたからです。日本人の足止めは、警戒のためでした。秀吉の朝鮮侵略の影響が大きかったことが、わかります。

3 107頁2行目「松前藩の不公正な交易方針」の内容が書かれていません。松前藩は海産物などの価値を不当に低く見積もり、アイヌからの大量の干鮭や昆布などを少量の米と交換して暴利を得ていたのです。干鮭・ニシン・昆布・蝦夷錦・ラッコの毛皮・鷹・クマ、シカ皮などで藩の財政は潤います。アイヌの不満と反発はたかまる一方でした。「アイヌの土地から和人を追い出そう」と先頭に立ったシャクシャイン。東は白糠(しらぬか)、西は増毛(ましけ)にいたる東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起し、和人の商船などを襲撃、270人ほどの和人が殺害されました。幕府の出兵命令を受けた津軽藩などの鉄砲隊によって、アイヌの弓矢や刀での抵抗は抑え込まれ、やむなくシャクシャインは松前藩との和平交渉に応じました。が、だまし討ちにあって敗れてしまいます。その後は、松前藩がアイヌとの交易を独占します。

4 106頁19行目「海産物や毛皮などを手に入れた」とありますが、「海産物」とは何でしょう。昆布・俵物(煎(い)海鼠(りこ)・干(ぼし)鮑(あわび)・鱶(ふか)のひれ)などです。長崎貿易での銅の替わりの輸出品になった海産物の主要な産地はこの蝦夷地でした。田沼時代にさかんになった中国向けのこれらの食材輸出は、銀の流出を止め、流入に転換させることになりました。

5 107頁8~9行目「幕府は貿易を統制し、利益を独占していたが、ヨーロッパからは新しい学問や文化も日本に入り」との記述だけでは、 アジアからの影響が欠けています。たとえば、中国や朝鮮からは、多くの書物をとおして、儒学・医学や薬学・文学・書画などがもたらされています。琉球からは、16世紀の後半以来三(さん)線(しん)が伝えられ、三味線(しゃみせん)として発達、歌舞伎や浄瑠璃などになくてはならない江戸の芸能として根付いています。

アドバイス

1 絵画史料や地図などを観察させ、読み解いていけば、外交も楽しく学べます。例えば、朝鮮通信使の全行程(帝国107頁)や文化交流として岡山県牛窓などに伝承されている唐子(からこ)踊り(同、同頁)があります。滋賀県には「朝鮮人街道」と名づけられた道路があります。将軍が上洛の際に通る道路を、通信使一行にも通過するように、指定したからだと伝えられています。なお、県内では小田原の早(そう)雲寺(うんじ)の山門の扁額(へんがく)が良い例でしょう。通信使が立ち寄った際に揮毫(きごう)したもので大切にされています。

2 昆布ロードをたどってみましょう。蝦夷の松前口から、昆布やニシンは北前(きたまえ)船(ぶね)で運ばれ日本海沿岸から下関、瀬戸内海を経て、大坂(大阪)で取引されます。ここで買いつけられた昆布は、長崎を経由する公認の貿易によって大量に中国に運ばれ、高級料理などに使われました。また、琉球を支配していた薩摩藩は、18世紀後半からは、中国と密貿易を行うようになりました。当時、昆布はバセドー病の薬としても珍重され、高値で売られました。替わりに薩摩藩が購入した漢方薬などを定期的に買いつけていたのが富山藩です。藩内で売薬として製造され、藩の認めた「富山の薬売り」たちによって、全国に売られていったのです。交易の広さと商品の流通が学べます。

3 106頁の蝦夷(えぞ)錦(にしき)の写真に注目しましょう。本来は、中国の役人の制服で、中国江南地方の蘇州・南京で作られたことが現在確認されています。アイヌ社会では、ハレ着として着用されたことから、アイヌが中国を中心とした東北アジア文化圏の中にも属していたことを示しています。

4 〆(しめ)粕(かす)はニシンを加工した肥料です。江戸時代後半の農業発展をもたらした要因の一つはこの〆粕で、当時オホーツク海や日本海では鰯より大量に獲れたために、18世紀後半には畿内に、19 世紀前半には北陸・瀬戸内へ肥料として広がりました。〆粕は主に綿などの商品作物に、丸ごとの胴ニシンは米作に使われ、生産高は飛躍的に伸びました。「上国(上方)の米穀なかば蝦夷地より出産すべし」(近江出身の馬場正通著『辺(へん)策(さく)発(はつ)朦(もう)』より)と記録されるほど畿内と蝦夷は結びついていたのです。