自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
 →横浜教科書研究会のとりくみ
■これまでに発表した声明を掲載します。
 →これまでに発表した声明
■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
 →自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?
■私たちの活動にぜひご協力ください。
 →カンパのお願い
■研究会主催の集会などイベントのご案内です。ぜひご参加ください。
 →イベントのお知らせ
■私たちの活動に関連する有益な書籍をご紹介します。
 →参考書籍

ヨーロッパ人の来航(Vol.2)

ヨーロッパ人の来航

「28ヨーロッパ人の世界進出開始」,「29ヨーロッパ人の日本来航」90~93頁

ここで学びたいこと

1 大航海時代とは? 大航海時代は、ヨーロッパ人の外洋航海活動が世界中に広がり、諸地域に波紋を起した時代です。イスラム文化圏に属するオスマン帝国は、地中海交易とインド洋交易の仲介をしていました。一方、ポルトガル・スペイン両国は直接交易を求めて、インドに向かう航路の開拓を始めます。スペインの援助で西回り航路をとったコロンブスは「アメリカ大陸」に到着し、それがアメリカ古代文明を崩壊させる端緒となりました。教科書の南蛮屏風にある船は、黒人や豹を乗せており、長崎に来るまで通ってきた地域を示しています。

2 新航路開拓とイエズス会 新航路開拓の目的の一つは、アジアとの直接交易でした。一方、イエズス会の世界布教は、教皇庁による宗教改革運動への対抗手段の一つでもありましたので、この新しい航路を利用して世界布教を行い、カトリック圏の拡大をはかりました。

3 鉄砲とキリスト教の伝来 インド洋や東アジア海域へのポルトガルの進出は、従来からその海域にあった交易網に参加する形をとりました。たとえば、ポルトガルのガマの船団は、アフリカ東海岸で水先案内人を雇い、その案内でインド洋を横断してカリカットに到着できたのです。鉄砲を伝えたポルトガル人も、後期倭寇の船に乗り種子島に来たのです。ザビエルは、ポルトガルの拠点マラッカで日本の情報を知り、その後東アジア海域交易網を利用して来日し、キリスト教を伝えます。キリスト教信者の数は、30万人に達したと言われています。

4 鉄砲の影響と南蛮貿易 伝来した鉄砲は戦法を変化させ、戦国時代の統一を早めました。信長は、戦国の世を勝ち抜くためその威力をいち早く見抜き、その調達と管理に長け、戦術に旨く利用しました。
当時明は、日本に倭寇の拠点があるため、日明間の民間交易を禁止していました。このため両国間で生糸・絹などを仲介する交易の利益は大きく、ポルトガル船もこの交易に参加しました。南蛮船は他にも時計などの珍しい産物をもたらしたので、大名の中には南蛮貿易の利益を目当てに、キリスト教に入信する者も現れました。

ここが問題

1 イスラム勢力の扱い方 教科書では、オスマン帝国が西欧商人の通行を妨げた(90頁)とあります。しかし実際には、16世紀初頭に東地中海でオスマン帝国の支配が確立して地域間の争いが収まると、共通の商業慣習のもとで安全が保証されたのです。この頃イスラム圏との交易は、ヴェネチアなどの北イタリア商人が独占していました。この教科書は、イスラム勢力を単純にキリスト教勢力の対抗勢力と見なし、航海技術の発達に果たしたイスラム文化の役割などに触れていません。イスラム勢力の学問・芸術面での貢献をもっとしっかり記述すべきです。

2 ポルトガルとスペインによる地球分割計画の強調 1494年のトルデシリャス条約で取り決められた経線により、「ブラジル」はポルトガル領となりました。その後両国はアジアをめざしますが、現地政権と既存の交易網のために、条約の決めた経線をアジア側へ延ばしても、その線は効力を持ちませんでした。「まるで饅頭を二つに分けるように地球を分割し」自分たちの勢力圏を決めた、という91頁の記述は、ヨーロッパの脅威を過度に強調しています。この教科書の特徴をよく示した記述です。

3 日本の鉄砲生産量は当時世界一? 教科書では当時「日本は世界一の鉄砲生産国」と92頁で記述しています。まず鉄砲の生産数については、鉄砲伝来研究で用いられる16世紀の資料メンデス・ピント著『東洋遍歴記』に関係する記述があります。1556年ピントは、大分で数人の商人から「日本全島に三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球に送った」と聞いたと記述しています。しかし、この数字は誇張もはなはだしいというのが研究者一般の意見です。また琉球は、当時武器の輸出入を行っていない国だったので、この証言自体の信憑性にも疑問があります。この教科書がこの資料に基づいているのならば、この記述のままでは、単純な「日本人礼賛論」につながりかねません。

4 93頁注「当時世界では銀は金と同じかそれ以上の価値を持っていた」 この文は金銀比価(同じ重さの金と銀の値打ちの違い)が同じになったという誤解をあたえます。当時、交易決済では銀の方が金以上の頻度で用いられた、と解釈するのが妥当でしょう。

5 キリシタン大名の保護で、長崎、山口、京都などに教会(南蛮寺)が作られた? 最初のキリシタン大名は、1563年に洗礼を受けた大村純忠です。1568年に長崎初の教会の建設には、彼の保護があったのでしょう。しかし1551年、山口に日本初の教会が建った時の領主大内氏はキリシタンではありません。また1576年、京都初の教会の建設に便宜をはかったのは信長です。したがって、93頁のこの記述は誤解を生む表現です。

アドバイス  

インド洋交易網と東アジア海域交易網 インド洋では1~2世紀頃から季節風を利用した交易が盛んで、対等な取引を前提とする「交易と契約の支配する交流の海」でした。インド洋ではダウ船が、東アジア海域では中国起源のジャンク船が主に用いられました。マレー半島やインドネシア地域は、インド洋と東アジアの両交易網の中継地でした。出会い交易により航海日数を大幅に短縮できたので、各地に港市が作られ、様々な人々が集まり、その中には日本人や中国人もいました。1570年代から明の海禁政策はゆるみはじめ、中国人の民間商人が東アジア貿易網で大きな役割を果たし始めます。また、太平洋を東から来航したスペインもこの交易網に加わり、フィリピンを拠点に、メキシコから運んだ銀を用い、主に中国商人との交易に従事しました。こうした交易網の状況は、17世紀の中頃まで続きます。