自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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近世の身分制度(Vol.2)

近 世 の 身 分 制 度

「36江戸の社会の平和と安定」108~109頁

ここで学びたいこと

1 近世の身分制度 前提として、江戸時代の人々の生活様式は身分に応じて異なっていたこと、幕府や藩により身分が制度化されていたことを述べましょう。また108頁の円グラフを利用して、それぞれの身分の人口比率を考えさせましょう。

2 武士身分 兵農分離の結果、武士と百姓間の身分の区別が確定し、武士身分は治者としての名誉を独占する身分として認知されました。武士以外の者が武士に対して「無礼」(武士の身体に当る、行列を横切るなど)をはたらくことはとがめられました。無礼討ちは武士だけに許される特権でしたが、むしろ地位の高さに見合う名誉を守るために彼らが果たすべき責務でもあったのです。手討の相手は必ず殺害する必要がありましたし、相手に逃げられることは武士として「不覚」とみなされ、処罰の対象となりました。無礼討ちを行った後には届出が義務づけられ、「無礼」の有無は厳格に審査されました。

3 村と百姓 幕府や藩による年貢・諸役の徴収の単位として、全国各地の生活共同体が、一律に「村」という枠組みで制度化された点に触れる必要があります。しかし等しく「村」といっても山村あり、漁村あり、町場あり(在郷町(ざいごうまち)といいます)、という状況だったこと、規模や景観においてかなりの地域差があったことを理解すると、「江戸時代の村」についての豊かなイメージがふくらみます。
教科書にも「『百姓=農民』とばかり受け取ってはならない」(109頁)とあるとおり、住民の大多数は「百姓」身分でありながら、さまざまな生業にもついていました。それでもやはり多くの百姓は、年貢米を納めるため、たとえば漁業や林業に特化した村や、よほどの町場でもない限り、田畑の維持を本業として義務づけられていました。さまざまな生業は、タテマエとしてはあくまでも本業を支えるための副業として許されていたのです。タテマエとしての副業と、ホンネとしての生業、この両方を説明すれば、本文と109頁上部の囲み記事との関係がうまく理解できるでしょう。
一方、農業を営む者がすべて「百姓」身分だったのではありません。多くの村の中には「百姓」以外の階層が存在しました。村や地域によって呼称(よく「水呑(みずのみ)」などと呼ばれます)、人数比、実態は千差万別ですが、おおむね彼らは検地帳に登録されず、五人組からも除外され、村の寄合にも参加できないなど不利な立場にありました。

4 城下町と町人 教科書の説明に加えて、城下町の絵図(高校の教科書・参考書・一般書籍などで簡単にみることができます)を見せ、城下町の居住区も武士、町人、寺社など身分別に区画されていた点を指摘すると、理解を深めるのに役立ちます。

5 えた・ひにん えた身分の人々は、農林漁業に従事しながら、死んだ牛馬の解体や皮革業、雪駄生産、竹細工などに従事し、また役目として犯罪者の捕縛や牢の番人などを務めました。ひにん身分の人々も町や村の警備などに従事しました。このように、社会的には必要な役割を果たしていたにもかかわらず、彼らは他の身分からきびしく差別されました。幕府や藩はその差別意識を利用し、身分制度の最下位として固定化することによって、幕藩体制の秩序維持をはかりました。これについては東書93頁に、「幕府や藩により住む場所や職業も制限され、服装をはじめさまざまな束縛を受けました。これらのことは、えた身分、ひにん身分とされた人々への差別意識を強める働きをしました」とあるのが参考になります。

ここが問題

1 108頁10~11行目「武士と百姓・町人を分ける身分制度は、必ずしも厳格で固定されたものではなかった」。身分所属のあいまいな境界線上の人間は、身分制度がどんなに厳格な社会にも当然存在しており、身分移動の事例の指摘だけでは時代の特徴を述べたことにはなりません。むしろ重要なのは、それでも江戸幕府が社会秩序を維持するために、身分制の枠組み自体を最後まで厳守したことです。このことがかえって、百姓や町人などの上層の間で「士分化(しぶんか)」願望をかき立てたのです。彼らのなかには、先祖が武士の家筋につながる由緒であることを証明しようとしたり、窮乏する御家人から御家人株を買ったりする者がいました。また藩は、財政政策の一環として上層農民、町人に御用金や献金をすすめましたが、その報酬として彼らに、公的な場での苗字・帯刀を許可しました。これらの動向は、武士身分が治者としての名誉を独占したという原則をふまえて初めて理解可能でしょう。そのことと、たとえば武士が商人になったこと(確かに実際にありえましたが)との社会的な意味合いは違うのです。
 身分移動の存在の指摘自体はきわめて重要ですが、そのことは常に当時の社会制度や人々の抱いた価値観と関連させて考える必要があるでしょう。

2 109頁8~9行目「百姓は年貢を納めることを当然の公的な義務」。まず理解しておきたいのが、 
 江戸時代が始まった当初(17世紀前半)、農民の生活は不安定だったにもかかわらず、領主から賦課される年貢・諸(しょ)役(やく)(城普請の手伝い、将軍や藩主のための荷物運搬など)の負担は大変重く、農民の生活が圧迫されたということです。このような状況の下、寛永(かんえい)18(1641)年から翌年にかけて、「寛永の飢饉」と呼ばれる大飢饉が発生し、全国に餓死、流浪、身売りが蔓延して、幕府に衝撃を与えました。
 多くの農民は農法を改良したり新田開発を行ったりして、少しでも農産物が手元に残るように努力を積み重ねました。一方、幕府や藩は、彼らの生活にある程度の余裕を持たせたほうが、生産力が高まり、年貢の取り分も増加することに気づきました。
 こうして17世紀を通じて農業生産力は大きく増加し、農民の経営も安定することになったのですが、幕府や藩は、年貢や役を徴収しすぎるがために百姓の生活を破壊することは、自分たちにとってマイナスになると知っていたため、たとえ生産力が増大しても、際限なく年貢を増加させることはしませんでした。百姓は年貢の納入を義務として受け入れることと引き換えに、幕府や藩に対して生活の安定と安心できる社会秩序を強く望みました。
 この「約束」が守られず、生活が脅かされた場合、百姓は領主に対して訴願を行いました。訴願を行うこと自体は合法であり、頻繁に行われました。それでも状況が改善されない場合、彼らはやむなく徒党を組み、百姓身分の象徴として鎌を携え、蓑(みの)笠(がさ)を着るなどして領主に迫り、異議申し立てを行いました。これが「強訴(ごうそ)」と呼ばれる行為であり、教科書などで「百姓一揆」と呼ばれるものはこの段階のものを指します。
 このように百姓一揆の目的は、あくまでも自分たちの置かれた状況の改善にあり、幕府や藩の体制自体を否定するものではありませんでした。その場合、幕府や大名は、たしかに「訴えに応じることもしばしばあった」(109頁)わけです。しかし、単なる訴願と違い、強訴という手段そのものは法によって禁じられていました。要求の実現と引き換えに、強訴の頭取は獄門(ごくもん)、死罪などの刑に処せられました。それでも18世紀後半、百姓一揆の発生件数が増加し、幕府は強訴禁令の周知徹底をはかりました。

3 幕府や藩による年貢の取り分をどうみるべきか? 元禄(げんろく)期(1688~1704年)ごろまでに、日本の農業生産力は地域差を伴いつつも大きく向上し、農民の経営も安定しました。左の図(割愛)は当時、紀伊国(きいのくに)(和歌山県)の庄屋であり、のち才能を買われて紀州(きしゅう)藩の地方役人となった大畑(おおはた)才蔵(さいぞう)が著書『地方(じかた)の聞書(ききがき)』で示した、「中分(ちゅうぶん)の作(さく)人(にん)」(普通の農家)の家計の収支モデルです。
この家の収支残額は銀21匁あまりしか残らないものとされています。才蔵はこれをもって、勤勉努力をし、倹約しなければ、暮らしが立ち行かなくなることを示したのです。
 この時期における同様の計算例は国内のほかの地でも発見されていますが、いずれも年貢を支払ったあと、十分な生活費は残らないとされています。「安定期」といわれるこの時期でさえ、少しでも凶作になると、家計は成り立たなくなるのでした。このような状況下、多くの農民は耕作のかたわら、荷物運送や商業などの余業に従事し、現金を得て家計の足しにしました。
18世紀から19世紀にかけて、農業生産力はゆるやかながらも増加しましたが、他方で年貢の徴収率は頭打ちとなり、農業生産全体のなかで年貢の割合は徐々に少なくなっていきました。マクロな視線でみれば、飢饉などの場合を除いて、幕末までには幕府や藩に徴収されずに村々に残される米の量は増大した、ということができます。
 しかしむしろ重要なのは、その米がどのように分配されたかをミクロな視線で考えることです。これはすなわち、個々の人の生活にそくして考えることを意味します。
左の表(割愛)は、信濃国(しなののくに)(長野県)北部の川中島(かわなかじま)と呼ばれる一帯を含んだ松代(まつしろ)藩領里方(さとかた)(平地の村々)の幕末の人口分布を示したものです。100石を越える石高を所持している者がいる一方で、大多数の者は5石未満しか持っていませんでした。わずかな土地しか持たない者は、多くの土地を持つ者との間で地主‐小作関係を結んで耕作地を確保し、経営を維持しました。年貢米の割合が減る代わりに、小作米すなわち地主の取り分が次第に増加していきました。
 こうした地主の多くは、酒屋や穀屋(こくや)を兼ねていました。大量の小作米が酒造にまわされるか、あるいは周辺の山間村に売られ、大豆その他の雑穀などと交換されました。
なお川中島地方は海から離れた盆地であり、多くの米消費人口を抱えた大坂や江戸などへ米の大規模輸送をするには限界がありました。そのため領主はあらかじめ村レベルで年貢米を換金させて納付させる政策も併用しました。この場合、村では米を何とかして地元で換金せねばならず、その手段として酒造業が発達したのです。米が農村に余り、酒の市場が展開したのには、こうした地域特有の年貢制度の影響もありました。もちろんこのような事情には地域差がありますが、地主‐小作関係が近世を通じて発展し、民間に残された米が、地主の手を通じて酒造や流通にまわされた点は一般化できるはずです。
 なお近世後期には、農民が商品作物を売るなど現金収入の機会も増えましたが、この点は収入面だけでなく、支出も含めて考える必要があります。後期に至っても、一般的な農家の経営にはさほどゆとりがありませんでした(「近世を学ぶために」参照)。
 よく、「江戸時代は明るい時代だったか暗かったか」、「豊かだったか貧しかったか」などといった問題設定がされます。しかし、「社会を見る眼」を養ううえで本当に重要なのは、そうした単純で二者択一的な見方ではありえないはずです。農林漁業を基本として、手工業や物流、運送など多様な生業に従事する人々が、身分制の枠組みの下、自然条件や交通条件に制約されながらもどのように日常生活を営んだのか、また、直面したさまざまな課題をいかにして乗り越えようとしたのかを、それぞれの生活の場=地域にそくして具体的にイメージすることこそが大切ではないでしょうか。

アドバイス 

 地元の自治体史や博物館の図録などに収められている江戸時代の村の絵図を教材として使うと、「江戸時代の村」に親近感を持つことができるでしょう。