自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?(Vol.2)

コラム 貨幣経済と米経済の攻防って何?

 
 江戸時代の経済の変化について、自由社教科書には次のような説明があります。

 江戸時代の経済の歴史では、民衆にとって便利な貨幣経済と、武士の生活を支えている米経済の攻防が繰り返された。幕府に強力な指導者が出て行われる「改革」は米経済体制の立て直しを意味し、かならず緊縮財政をともなった。市中に流通する貨幣は減り、倹約令も出されて民衆の生活が制約されるために文化もいきおい低調になるが、その緊縮政策がゆるみ、貨幣流通が息を吹きかえすと文化も再び花開くのであった。(120頁1~8行目)
 「先生、貨幣経済と米経済の攻防ってなんですか?」と質問されたら、どう答えたらよいでしょう? そもそも貨幣は、民衆には「便利」で、武士には困る存在なのでしょうか? また、貨幣の流通量の変化によって、文化が発展したり衰退したりするのでしょうか?
 貨幣経済とは 中世の日本では、強力な統一権力が存在しなかったために、信用ある貨幣が発行されず、中国の銅銭(宋銭・明銭)を輸入して国内で使っていました。国内で貨幣を発行できるようになったのは、豊臣秀吉、徳川家康が国内を統一してからのことです。しかし、貨幣は発行されただけで広く流通するわけではありません。律令時代の富本銭や和同開珎などが社会にゆきわたらなかったように、貨幣が必要とされるような商品の交換が行なわれなければ、普及しないのです。江戸時代には、中世とは比べものにならないほど商品生産が盛んになり、貨幣も広く社会全体で用いられるようになりました。つまり、貨幣経済の発達とは、商品経済の発達を意味しているといえるでしょう。

 武士の収入では、江戸時代の武士にとって、貨幣経済は攻防によって敵対すべきものなのでしょうか? 江戸時代は、兵農分離によって武士が城下町に集住させられていたため、幕府・大名やその家臣たちは年貢米を商品として売って貨幣に換え、その代金で必要な物資を手にいれるしくみになっていました。米経済という言葉は歴史学の用語ではなく、この教科書にも説明がありませんが(もちろん高校の教科書や受験にも登場しません)、武士が年貢米に頼って生活するという意味だとすれば、米経済による武士の生活は、はじめから貨幣経済(商品経済)にくみこまれており、貨幣経済と対立し攻防するものではないというべきでしょう。武士は、はじめから商品としての米の流通売買を前提に財政を維持していたのです。さらに、くわしくいうと、武士も全国的な商品流通を前提として生きるという社会のしくみを作ったのが、豊臣秀吉や徳川家康の行った兵農分離政策でした。

武士の財政困難 しかし、貨幣経済の発達は、武士に大変大きな影響を与えました。新田開発が進み、需要以上に米が生産され市場に出回るようになれば、米価は低迷します。一方、さまざまな商品が生産され生産が需要に追いつかないと、その値段は上がり、武士の支出は増加します。米価安、諸物価高――大きく見てこの動きが進んだこと、そして、その結果、年貢米の販売代金で財政をまかなっていた幕府や大名が財政難に苦しむことになったこと、それが、貨幣経済が武士に与えた影響でした。
 18世紀以降、幕府や大名の財政難を示すエピソードは数多くあります。盛岡藩では、1723(享保7)年の大晦日、江戸の藩邸に品物の代金を取り立てに来た商人たちに支払いができず、商人たちが元日になっても藩邸を退去しないため、藩の重役が商人たちに財政困難の事情を告げて謝り、その面前で切腹し、ようやく帰ってもらいました。また、庄内藩主の酒井忠徳は、1772(安永元)年の参勤交代の帰途、福島宿で旅費がなくなってしまい、「14万石の大名でありながら旅費も不足するようでは、将軍さまへのご奉公など、とてもつとまるまい」と泣いて嘆いたそうです。参勤交代の旅費すら出せずに困っていた大名は、東国でも西国でも珍しくありません。

貨幣経済を利用する このような、18世紀以降の幕府や藩の財政難の大きな原因は、貨幣経済(商品経済)の発達にありました。幕府や藩は、倹約だけでなく、まず年貢を増徴してなんとかしようとします。また、それが難しくなると、逆に商品の生産や流通を盛んにして、田沼政治のように、その利益に税をかけ商人から上納金を取り立てました。
 しかし、財政難の対策は、それだけではありません。特に、幕府には、大名にはできない収入増加策がありました。それは、貨幣の改鋳です。金や銀の含有量を減らして、質の悪い金貨や銀貨をたくさん発行し収入とする―つまり“お金が足りないから、お金を作ってしまう”のです。貨幣経済との「攻防」どころか、これ以上の貨幣の利用はありません。幕府にとって貨幣はきわめて「便利」な存在でもありました。
 元禄時代(17世紀末)に初めて行われた貨幣改鋳で、幕府は450万両の出目(利益)を得ました。その後、貨幣政策はいろいろ変化しますが、19世紀には、改鋳による出目なしには幕府財政はなりたたなくなっていました。強力な幕政指導者水野忠邦が天保改革をおこなっていた1844年、幕府収入の33.3%(856万両)は改鋳によるものでした。「改革」だからといって、貨幣流通量を減らしたというわけではないのです。まして、文化の発達・衰退が貨幣の流通量によるという新説(奇説?)に根拠はないというべきでしょう。
 この教科書を使う場合には、「貨幣経済と米経済の攻防」などという、江戸時代の経済についての誤った説明を削除して、商品生産が社会にどのような影響を与えたのかをきちんと理解させることが大切です(本冊子86頁「幕藩体制の動揺と改革」参照)。