自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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コラム  江戸時代の飢饉の記述について(Vol.2)

コラム  江戸時代の飢饉の記述について

素っ気ない記述  飢饉もしくは凶作についての記述は全体に素っ気なく不親切です。「歴史のこの人」の青木昆陽の説明に、「たまたま、享保年間に西国が飢饉にみまわれ、幕府は飢饉の際の食糧確保の方法を考えなければならなくなった」(117頁)と書いています。昆陽を取り上げるのはよいとしても、そのサツマイモの栽培の動機となったとする享保の飢饉については、本文にも記述がなく、西国が飢饉になったということ以外に何もわかりません。1732(享保17)年にウンカという虫が、大陸のほうから海を越えて飛来し、西日本で異常に増殖して稲を枯らし、大凶作になってしまったことくらいは説明してあげたいものです。幕府はこの西国の飢饉を救うために、大坂の御蔵や各地の城に備えてあった米、幕府領の年貢米、江戸で買い上げた米などを積極的に西日本の被災地に回しました。江戸ではそのために米価が上がってしまい、回米に関与した商人が打ちこわされています。また、鯨から採った油を水田に注ぎ、それにウンカをたたき落として駆除する方法が発明されたことなどにも触れると、享保の飢饉についての理解は深まるでしょう。

天明の飢饉の原因は浅間山の噴火か? 「産業の発展と田沼政治」では、「1783(天明3)年の浅間山噴火による気候不順でおきた大きな飢饉(天明の飢饉)で、多数の人々が餓死し、一揆や打ちこわしが多発し」(117頁)、責任を問われ田沼が辞任したと書かれています。しかし、多数の餓死者を出した天明の飢饉ははたして浅間山噴火による気候不順で起きたのでしょうか。結論からいえばきわめて短絡的な結び付けかたです。
 天明の飢饉は1782(天明2)年頃から1787(天明7)年頃までを長くとらえるのが一般的なようです。1786(天明6)年の関東や西国の凶作が米価の高騰を招き、翌年5月頃、大坂・江戸など全国各地の都市で連鎖的に打ちこわしが発生し、田沼の失脚につながりました。ただ、「多数の人々が餓死」したのは1783(天明3)年の大凶作によるものです。餓死者は、東北地方の北部・太平洋側に集中し、30万人以上と推定されます。
 浅間山の噴火は、1783年の4月頃から噴火が始まり、6月下旬から7月上旬にかけ(新暦でいえば7月下旬から8月上旬にかけ)激しく噴火し、東北の仙台や盛岡あたりまで白い「毛」のような灰が降ったと記録されています。群馬県側に大きな被害を出し、噴火による土石なだれ・泥流で約1500人が死亡したと推計されています。この浅間山の火山灰は成層圏にまで達して日光の照射を妨げ、それによる冷害でフランス革命を誘発したとまで語られることが少なくありません。東北地方では、浅間山の大噴火が起こる前から、太平洋の海の方から吹いてくる東北風、いわゆるヤマセの影響で冷たい雨の降る日が続き、低温と日照不足の天候不順であったことが知られています。浅間山の大噴煙の影響はなかったとはいいきれませんが、基本的にはヤマセの影響とみるべきでしょう。ヤマセはオホーツク高気圧が発達したときに起こる気象現象といわれています。

飢饉は自然災害? 浅間山の噴火はともかく、気候不順が飢饉を引き起こしたという書き方も、飢饉は自然災害、天災だという狭い見かたに閉じ込めかねません。飢饉というのは、冷害・旱害・風水害・虫害など農作物の被害、すなわち凶作がきっかけとなって、食べ物が不足し、死に直結していく飢えの状態に陥ることです。天候不順など天災的な要素のあることは否定できませんが、凶作がただちにおびただしい数の餓死者を生み出してしまうとはかぎらず、さまざまな人為的(政治的・経済的)な要因がからんで、飢えが作りだされたのが、少なくとも江戸時代中期・後期の大きな飢饉の特徴です。
 当時の人々は飢饉を説明するとき、人々の奢(おご)り、すなわち質素倹約な生活を忘れ、ぜいたくな暮らしをするようになったからだといいました。奢りというは、貨幣経済・市場経済の発展によって、米を作る農民も年貢米を納めた残りの米を売って貨幣に換え、衣食住の消費生活の向上にあてようと考えるようになったことを意味しています。本来、農民は凶作になったときの恐さをよく知っており、それに備えて次の収穫まで米を残しておいたものです。しかし、新田開発が進み、低米価の時代が長く続きましたので、少しでも売値がよくなると、気候不順を気にとめずに手放すようになってしまいました。そこに大凶作に襲ってきたらどうなるでしょうか。むろん、藩の救済があれば人々は餓死しないで済みますが、藩もまた財政窮乏などから、年貢米に加え、農民から強制的に買い上げて江戸や大坂方面に回米していましたので、人々を飢え死から救うことができませんでした。これが東北地方における天明の飢饉の実態でした。

備荒制度の登場  こうして、藩も農民も貨幣経済の進展とともに飢饉への備えがおろそかになって天明の飢饉を招いてしまい、あらためて寛政の改革で、社倉などと呼ばれる地域社会の備荒制度が再構築されることになったのです。「寛政の改革と大御所時代」では、松平定信が「凶作や飢饉に備えて、農村に倉を設け、米を貯蔵させた」(118頁)と記述し、その肖像画の説明でも、「凶作や飢饉への備えを指導し、天明の飢饉のときも白河領内には餓死者を出さなかった」(118頁)と人物の紹介をしています。飢饉の原因を浅間山噴火だけに求めるのは、前に述べた通り誤りですが、定信が社会政策として飢饉の備えに取り組んだことはきちんと教えて欲しいところです。

想像力を働かせよう  「飢饉の発生と天保の改革」では、「19世紀前半の天保年間に、日本は凶作におそわれ、深刻な飢饉におちいった(天保の飢饉)」(118頁)と書きますが、「深刻な飢饉」とはどんな状態なのでしょうか。天明の飢饉でも「多数の人々が餓死した」というだけで、飢饉状態のなかで苦しむ人々についての想像力がまったく働きません。食べ物がなくなると人々は山野に入り木の実を拾い、草の根を掘りました。また、飢え人となって食べ物のある都市に向かい施しを受けました。はるばる江戸へのぼり、そこで保護され国元に帰された人もいました。飢饉下では盗みや放火が発生し、そのため過剰防衛になりやすく、わずかな盗みでも村人たちによって殺されてしまうこともありました。飢え死にそのものよりも疫病に罹って死んだ人のほうが多かったと記録に残されています。飢饉のとき人肉を食べたということまで生徒に語る必要はないと思いますが、飢えた人々の境遇を想像させ、飢えにならないための手だてを考えさせるのが、今日の食料・農業問題ともかかわって、飢饉を教えるさいにもっとも重要なことでしょう。