自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
■まず、私たち「横浜教科書研究会」のこと、そしてこれまでのとりくみについてご紹介します。
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■自由社版教科書を使用して授業をしなければならない、現場の先生方、保護者の方、自由社版教科書を使っている中学生を指導される塾の先生方に、お読みいただきたい冊子です。 
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コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ(Vol.2)

コラム 「江戸の下町へタイム・スリップ」は幻想だらけ

                              「江戸の下町へタイム・スリップ」122~123頁

1 「両国橋のにぎわい」は
 最初の「江戸両国橋のにぎわい」と「三井越後屋」は、江戸東京博物館の展示の紹介です。これが繁栄する江戸下町の姿だ、と印象づけるための仕掛けです。
 江戸の下町とは、高台の山の手に対し、江戸の低地の部分を下町と呼ぶという説が有力で、山の手には武家屋敷が多く、下町に町屋が多かったことから、下町は町人の町というイメージが定着しました。そして江戸中期までの下町は、神田・日本橋・京橋周辺の呼称で、後期に下谷や浅草までを加えるようになりました。
 「両国橋のにぎわい」は、江戸東京博物館の常設展示場の中心的展示で、実物大の両国橋を再現したものです。そして橋の東西に設けられた広小路の賑わいを見せることで、江戸の繁栄を実感させようとしたものです。時代設定は江戸後期、下谷や浅草も下町と呼ばれだした文化文政期の光景を想定し、再現したものです。
 たしかに下町の日本橋周辺には、呉服の越後屋をはじめ大店が建ち並んでおりました。彼らは株仲間を組織し、江戸の経済を牛耳ってきました。遊里吉原では、「粋」と呼ばれる美的な感覚で遊女と上手に遊び、「通」と呼ばれるお大尽(だいじん)の多くは大店(おおだな)の旦那衆でした。「葛蒔絵(くずまきえ)提(さげ)重箱(じゅうばこ)」のような豪華な衣類や家具や装飾品を所持できたのは、大店と呼ばれるほんの一握りの上層町人だけでした。

2 江戸後期に経済の主役は野暮な中小商人へ
 しかし江戸後期になると、株仲間以外の中小の新興商人が江戸経済の中で大きな位置を占めだし、まもなく江戸のメーンストリートに進出するのです。
 村を離れた貧しい農民が各地から大量に江戸に流入してきて裏長屋に住む。こんな「店(たな)借(がり)」といわれた住民は、手に職(技術)もなく、元手(資本)もないので、仕事は日雇いや行商などによる日銭(ひぜに)稼(かせ)ぎのため、「その日暮らし」の者と呼ばれました。しかしそんな人間でも、毎日食べ、着物を着て生きています。それが10万人以上にもなると、消費量は膨大なものになります。彼らは安い物しか買えません。こんな層を相手に商売し、経済的に成長しだしたのが神田周辺に店を持つ中小商人でした。扱う商品は江戸地廻(じまわ)り産の安物ばかりです。彼らの生活はまだ質素なものでしたから、暮らしに潤いをもたらす民芸風の家具や装飾品を大切に使いました。彼らは江戸っ子であることを誇りにして、生活信条として「意気」や「心意気」という言葉を大切にするようになりました。
 一方「その日暮らし」の者たちは裏長屋(うらながや)暮らしでもなんとか暮らしていけるから、「人返し令」の甘い誘いには乗らない。彼らも人間で、花見にも花火見物にも出かける。だから行楽地が賑わったのは当然です。また裏長屋を舞台にした怪談物が大変な人気を呼びだしたように、裏長屋の住民を主人公にした小説や芝居が江戸文化の主役に躍り出たのです。

 
3 闘う江戸の下層民にも焦点を当てよう
 江戸後期、江戸の住人の大半は、「その日暮らし」の者で占められだしました。下町の神田周辺や下谷のほか、「場末(ばすえ)町」と呼ばれる本所・深川などの裏長屋に住み、日銭稼(ひぜにかせ)ぎの仕事に出ました。でも、江戸ではお米が食べられる。すごい!
 主食はお米しかなく。江戸では将軍も裏長屋の熊さんも米を食べて生きています。そんな消費人口が100万人も住んでいたのです。そこへ大凶作が起こり、稲が不作で米価が暴騰したら江戸市中は一挙にパニックに陥ります。そして安い米を求めて「その日暮らし」の者たちが米屋を打ちこわしに出ます。1787(天明7)年、天明の飢饉のさい、約1,000軒も米屋などを襲い、自分たちの命を守ろうとしました。老中田沼意次を失脚させる原動力となったのです。
 そのころ、100万都市への産物供給など商品生産が盛んになり、村にも田畑を手放して機織などで働く貧農が増えていました。彼らもまたお米を買って食べだしましたので、村にも消費人口が増大していたのです。だからちょっとした不作でも各地で打ちこわしが起こりました。そんな闘いが全国的に頻発しだしていたのです。その最大の闘いが天保の飢饉のとき、全国で起こった打ちこわしでした。
 そんな各地での打ちこわしは、すぐ江戸の米価に反映しました。そこで幕府は貧民救済のための七部積金の法で積み立てた資金を運用して、打ちこわしへの発展を未然に食い止めたのでした。
 これが「下町へタイム・スリップ」の華やかな江戸の実態なのです。事実を隠蔽し、繁栄の一部分を拡大してみせるのでは、史実は見えてきません。

4 輸出陶器用に浮世絵の古紙は使われたか?
 123頁の下に「ヨーロッパに輸出された絵皿」という題で伊万里焼の皿が紹介されています。これはオランダへ輸出されるさいに梱包用に浮世絵の古紙が使われ、それがヨーロッパでの浮世絵の流行、さらに「ジャポニスム」という日本ブームのきっかけとなったという説明を裏付けるために紹介されたのでしょう。
 浮世絵が錦絵と呼ばれるのは、浮世絵師鈴木春信が創始してからです。そのころ、もう伊万里焼の輸出は中止され、VOCという商標を持つオランダ東インド会社も解散し、伊万里焼のヨーロッパ市場への道は途絶えていたはずです。密貿易で輸出されたと想定しても、それはゴッホやロートレックが影響された錦絵ではなく、単色か2色の浮世絵でしかなかったはずです。このVOCのマーク入りの皿は、17世紀産の伊万里焼で、明の景徳鎮が復活し、伊万里焼の輸出が衰退する以前のものでしょう。
 浮世絵が、ヨーロッパ、とくにフランスで大きな反響を呼ぶのは1867年のパリ万国博覧会に、浮世絵が大量出品されてからです。もしそれ以前だとしても、横浜港から輸出される生糸の荷崩れ防止のパッキング用に詰め込まれた可能性があるくらいで、いずれにせよ幕末のことです。それが常識だと思います。