自由社版『新編 新しい歴史教科書』でどう教えるか?

2010年4月から、横浜市の8区の中学校で『新編 新しい歴史教科書』が使用されることになりました。これらの区の多くの先生方が、自由社版歴史教科書の採択を望んでいたわけでもないのに、突如として市教育委員会が採択したことにとまどいを感じているのではないでしょうか。 この採択は、公正な採択のために設置された市審議会の答申を市教育委員会が無視し、しかも歴史教科書の採択だけが無記名投票で行われるという責任の所在を曖昧にする前例のない不当なものでした。そのように採択された自由社版歴史教科書は、検定で500か所あまりの指摘を受け不合格になり、再提出のさいにも136か所の検定意見がつけられ、これを修正してやっと合格したものです。しかも、検定で合格しているとはいえ、なお誤りや不適切な部分が多数あり、問題のある教科書です。このような教科書をどのように使用したらよいのでしょうか?
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農業・産業・交通の発達(Vol.2)

農業・産業・交通の発達

                                「37農業・産業・交通の発達」110~111頁

ここで学びたいこと

1 大開発と農業技術の進歩 17世紀は、大開発の時代とよばれ、耕地面積はそれ以前の2倍にまで広がりました。この頃の新田開発は、年貢収入を増やすために幕府や大名が行ったものだけでなく、農民や商人もさかんに開発を行いました。横浜の場合、現在の横浜港や横浜駅の周辺は、それぞれ、17~18世紀に町人が開発した吉田新田、尾張屋新田などとよばれる新田です。現在の横浜市街の中心部はすべて江戸時代の干拓地の上にあることなどを紹介するのもよいでしょう。

2 産業と交通の発達 農民も、身近な土地での新田開発や農具の改良に努め、米や麦などの穀物だけでなく、商品として売るための、農業・漁業・手工業の生産が各地で盛んに行われるようになりました。111頁の図を使って、子どもたちが知っている特産物を探し、江戸時代の産業が現在の生活文化につながっていることに気づかせることもできます。
 また、それらの商品生産が互いに関係しあって発達したことにも目をむけたいものです。江戸時代のはじめ頃まで、木綿や生糸・絹織物は朝鮮・中国から輸入されていましたが、次第に、国内での生産が盛んになりました。その結果、染料となる紅花や藍の生産がさかんになり、綿作は良質の肥料を必要とするために、肥料となる干鰯や干ニシンが求められ、網を使った大規模な漁業が盛んになります。流通の展開は貨幣経済の発達をもたらし、金・銀・銅の鉱山開発も進みました。

3 三都の繁栄 江戸時代には、江戸、大坂(大阪)、京都の三都とよばれる巨大な都市が発達しました。江戸の人口は100万人を超え、世界一の大都市になりましたが、それはなぜでしょうか?江戸の人口の半分は武士とその奉公人です。江戸には将軍の家臣(旗本と御家人)が集められ、大名も参勤交代のために1年ごとに江戸と国元を往復して生活させられました。武士の生活を支えるために、商人や職人の町も作られました。こうして、最大の城下町江戸は、政治の中心となる都市として、人口がふくれあがっていったのです。
 一方、新田開発により増産された全国の年貢米や特産物は、大坂におかれた大名の蔵屋敷などに集められ、そこから菱垣廻船や樽廻船で大消費地の江戸に運ばれました。大坂は、「天下の台所」とよばれる商業の中心になりました。三都や各地の城下町が大量の年貢米の販売・消費地でもあったことにも、目を向けたいものです。

ここが問題

1 110頁1~3行目「平和な社会が到来し、人びとは安心して生活の向上をめざして働いた。幕府や大名も、農地の拡大につとめ、干潟や河川敷などを中心に新田の開発が大規模に行われた」というところは、幕府や大名が新田開発を行い、そのもとで農民が働いただけという理解にならないようにすることが大切です。横浜をはじめ、全国各地でも、農民や町人たちは、規模の大小を問わず新田開発に取り組んでいます。新田開発は、百姓や町人たちの工夫や熱意と幕府や大名の姿勢があいまって進んだとみるべきでしょう。

2 111頁8~9行目「江戸は、「将軍のおひざもと」とよばれ、商人や職人が多数集まり」というところも、城下町に自然に商人や職人が集まってくるようによめるので、注意が必要です。城下町の建設にあたっては、かならずしも商人や職人が自然に集まってくるわけではありません。大坂や江戸では、豊臣秀吉、徳川家康が商人や職人を集め、職業ごとに町をつくらせました。
右の図(割愛)は、江戸の日本橋南側の様子です。町名をみると、さまざまな商人や職人の町があったことがわかりますが、それは、幕府が積極的に商人や職人を集めて居住させたなごりです。都市が発達してゆくと、みずから都市に流入する人びとも増え、職業も入り交じるようになります。ただし、武士は武家地、町人は町人地にしか住めませんでした。人口の半分を占める50万人以上の町人たちは、江戸の土地全体の16%(約296万坪)の町人地に住んでいたのです。

アドバイス

1 この項目は、地域の教材を使いやすいところです。大岡川、鶴見川、帷子川などの下流域の開発事例から、子どもたちの関心を引き出すこともできます。

2 三都の町人の活発な経済活動を理解するために、三井越後屋の「現金掛け値なし」の図も役立ちます(帝国116頁)。